昭和41年04月05日 朝の御理解



 教祖の神様はいろいろ教えて下さる事の中に、こう言う様な教えが出来たと言うか表現て言うのは、お道の信心のいうなら独壇場であると思うのでございますけれども、例えば仏教でいう因縁と、因縁ですかね、とはちっと違うでしょうけれども、お道で言うめぐりというそれを、天地に対して無礼いたし、前々のめぐりで難を受けおると。お道のめぐりということを盛んに使います。
 めぐりと言う事を、難儀なことが起こって来るとめぐりのお取り払いだと。ほんとにめぐりというものは、恐ろしいものだと、言う様に難儀の元である所の、そのめぐりという事を使いますけれども、教祖の神様は、沢山な御教え御理解下さっておるなかに、そのめぐりと言う事は、そういう意味で、そこに一箇所使っておられるだけですね。あんためぐりのために病気したと、言った意味のことを仰っておられない。
 天地に対して無礼いたし、前々からの、前々からいうなら先祖代々から、天地に対して無礼致し、前々のめぐりで難を受けおるととこう。ですから考えますと、めぐりというのは恐ろしいものだなぁと思いますし、又信心が段々分かって参りますと、そのめぐりのおかげで、めぐりが大きいければ大きいだけ、めぐりが深ければ深いだけ、にこのおかげが大きいと言う事になるのですから。めぐりというものは有難いものだと、言う事になるのでなければならんのである。
 ですからそのめぐりの元であるところの、天地に対して無礼いたしというところをです。私共は本気でお詫びさしてもらい。本気で天地に対する無礼を、人間氏子の上に分からせようとなさっておる、神様のお心を分からしてもろうて、めぐりのいうなら、お取り払いを頂かしてもらわなければならんのであり、そのことによって、お徳を受けさせて貰わなければならんのである。
 昨日、私いろいろお取次ぎさせて頂くのに、その中でひとつの同じ様な事柄で続けてお取次ぎさせて頂いた。ま、それのお話できるひとつ、二つをお話致しますとですね、お母さんが耳が遠いんですよ。ところがその子供さんであります、今年小学校二年性になる子供ですけれど、初めの間はそんなことは全然なかったんだけれども、最近非常に耳が遠くなってきた、小学二年生。
 もうめぐりは恐ろしい事でございますと、この子にまで私のいうなら病気をです、病気がこうやって伝染すると言った様な、遺伝すると言った様なその事ではない様な病気がです、やっぱり遺伝の様な形をとって、又この子が耳が遠いとこう言われるのです。もう一つはですね、本当に是なんかは突発的な事ですから、そういう遺伝とか言った様なものは全然無い筈なのにですね、めぐりとは恐ろしいなぁと思わ思わにゃおられん。
 お父さんが、お父さんになられるのは、高校時代かなんかに、化学の実験かなんかをやっておってですね、その薬品でこの小指を全部取れてしもうた。火傷から、ところがその子供さんがです、去年結婚されたんです。そのお嫁さん、親戚の方がそのことをお届けされるのですよ。それにそのまだ赤ちゃんがですね、そのおばあさんがお守しよんなるわけ。ほいで仏様を拝みよりござった。して子供はコタツの横に休ませた、所がどうした弾みかその子供が、コタツの中に落ち込む。落ち込んだまで気が付かなかった。
 ところが泣き声が聞こえるので、仏様を拝みやめて、手をやけどしてから、この小指だけが焼けてしまうた。小指だけがない。私それを聞かせて頂いてから、私自身もそれを思うですたいね。おとうさんは、その化学の実験をしよってから小指を取ってしもうた。その子供さんは又、生まれて間もない赤ちゃんがですね、コタツの中に落ち込んでからやけどをした、火傷をしたじゃなくて焼けきれてしもうた。小指だけが。
 思うて見ると、めぐりというものはどうにも出来ないものであり、めぐりというものは恐ろしいものだと言う風に感じるでしょうが。まだこれなんか精神的なものだから申し上げられない事でございますけれどもですね、もう一つもっと私はめぐりとは恐ろしい事だなぁと。そう言う様なものまで子供に伝わるんだろうかと言った様な、この難儀な問題をお取次ぎを願っておかげを頂くように願うておられる方がありますです。そう言う様なです、ものを私は次々と取り次ぎさせて頂いてから感じるんですね。
 そこで私が思うことでございます。いわゆるその例えていうならです、自分が耳が遠いからです、子供が耳が遠うなるだろうと、いやそういうことはない筈だという、と思うておるのだけれども、やはりその起きて来る時、やはり自分自身が耳が遠いということを、本当におかげ頂きぬかなければいけないな、ということ。例えばなら、小指なら小指にまつわるめぐりというものがです、これをほんとに親の時代に、これを一つ本当にこういうことが、子供に残らない様なおかげを頂かなければならんということ。
 これは私の方なんかは、もうみんな足にまつわっておる、まつわる。様々な難儀な問題がいくらもある。私が足が立たなくなる。長男は最近そういうことはないですけれども、ついこの頃までは、夜中にもうとにかく足が痛むと言う。子供達がそれがあう。母が足が悪いでしょう、父が足が悪いでしょう。私の叔父やら叔母やらという、大坪家のもの、叔父やら叔母やらというもの、もう殆どもうちんばです。もう兄弟そろうて可笑しいごとある。みんな足が悪い。
 それがね、一人は若いときに炭鉱へ行っておってから、炭鉱で足をやられたとか、私の父はこの、筑後軌道の時分に機関手をしておりましたから、機関車にやられた、機関車でやられておる。母なんかはちんばしておりますけれど、あれは神経痛、その起こってくる事柄はなんだけれども、足にまつわってくるわけなんですね。やっぱりあのめぐりを言わんわけにはいかんのであり、めぐりのお取り払い、めぐりの恐ろしさというものを思わんわけにはいかんのです。
 よし表れてくるならまだいいんです。けど目には見えないものなんです。例えば心の上と言った様なものがです、そこでお互いが分からなければならないことは、自分の心の中にあるこの浅ましいとか、汚いと言う様なものがです、ね、私は天地に対して無礼致し、前々のめぐりでて仰ってるところなんか、そうですね、色々深く分からせて頂けば頂くほど、神様がね、そう言う様に例えば、そのめぐりの表れがです、足に表れたり手に現れたりしたんではですね、漠然としてくるわけなんですよ。
 ほんなこっちゃろうかと思うわけですよ、信薄きものは。ね、けれども足なら足、耳なら耳。小指なら小指というだけにです、特別に現れて下さる所にです、神様の切なる願いを感じんわけにはいかんでしょうが、この人は繰り返し繰り返し、これでも分からんのか、これでひとつ分かってくれよと言う願いがあるのですよ。そこで神の願いを願いとして自分の心の中に頂かせてもろうてです、このことを本気でこの根治のために、いわゆる根切れのために、改まらなければいけないかということが分かるですね。
 自分のこういう浅ましいものが心の中にある、こういう誰も持たん、いわゆるめぐりを自分が持っておる。けれども、幸い子供には伝わってはいない、と思うのはそれは自分の欲目です。もうちゃんと伝っておる。まだ表れていなくて、それが例えばまだ小学校の七つか八つまではです、耳が遠くはなかったけれど、その間はまだ表れていなかったわけです、いうなら。それでも小学校に上がるくらいになったら、あらこの子は耳が遠いとじゃろうか、よくよく思うてみたら、本当に遠いことが分かった、と言う様にです。
 そらその間分かっていないだけなんです。ね、これはもう十何年前の話なんですけれどもね、ある方がそのお願いに参られたことがあるんですよ。これはもうほんとにぞっとする様な事なんです。学校からお父さんを呼び出しが来たから行ったんです。ところがそのこの頃ひんぱんとして、その学校でものがなくなるという。よくよく調べたところが、お宅の子供さんがま、盗りよんなさるごとあるから、家庭でもいっちょあれしてくれというわけなんですね、注意してくれとこういうわけなんです。
 もうそれを聞いた時にね、血の気が引いたように思うたち、お父さんが。ね、とてもこげな事までは、子供には伝わるまいと思うておったんだけれど、実はお父さん自身、自分自身にそれがあったと。というて私はですね、もうここで赤裸々にお届けをされるんですけれども、もう私はね、もう大きなもん、そんな盗ると言った様な意識、そんな泥棒心は私にはないんですけれど、一寸私には、ま、普通でいうなら、こんぎがあると言う事なんです。ま、これは例をもって言うならですね、デパートあたりに参りますと、昔あのお手洗いなんかに参りますと、お手洗いの中に紙がはいっとったですね。
 それをですね、入ったらさっと、ちっとばっかり持ってこにゃ気が済まんちゅうものが自分の心の中にある。ね、なんか手出したもんけん、盗ったような気色になったようなものが、自分の中にあったけれど、よもやそれが息子に伝わるとは思うてなかった。あるときに、ある町に行ったところが、あの易者がですね、こうやってそのお話しをしよるところに行ったところが、顔のどこになる人は盗癖があると言うて、その言われた時にそれがちょうど自分の言われる所にあったちゅうわけです。あざが。
 もうそれでそこにいたたまれんごとびっくりしてからですね、ほんとにやっぱそげなもんがちゃんと、顔やら人相に出ていると言うことをですね、思うてみちことがございますちゅうてお届けがありました。もうほんとに恐ろしいことでございます。私はこのくらいばってん、子共んとはまだひどかわけ。それからもう本当に一生懸命でですね、もうそれがですね、もうやっぱりもうそのひとつの病気ですからね、もうどうにも出来ないようにあるらしいんです。
 けれどももうそれこそ、一生懸命でお願いしてから一年間目にはですね自分の顔にあったあざが消えてなくなった、その人の。私ほんとにもう恐ろしいて、運命が信心によって切り替えられると言うことは確かに本当だと思うですね。おかげで子供も盗癖が無くなりました。もう十何年も前の話だらこうして話ししておりますけれど、ほんとにそりゃ、私昨日ですね、昨日もうひとつお取次ぎさせて頂いたのは、そういうことじゃないけれどそれにも増してですね、もうぞっとする様な事なんですよ、やはり。
 してみると、めぐりとは恐ろしいなぁと分かるです。自分の心の中にです、自分の性格の中にです。なんという性格なんだろうか、なんちゅう、汚いと言う様なものがあるならです、まだ子供に表れておらんからというて、安心はでけませんと言う事。子孫に表れてないから安心はでけんと言う事。いつかは出てくる訳です。それで私は三つ今の事と、今お話しました様な事でですね、まお父さんが小指が無くなったら、子供さんが又小指が無くなった。ね。
 お母さんが耳が遠かったら、その事は、とても持病でも遺伝でもないと思うた所が、やっぱり、子供が耳が遠うなっていきよると言う事。ね、そういうところから、めぐりとはやっぱり恐ろしいと、思わなきゃおられんのであり、同時に、私共が子供のときに、分からして頂くことはです、ね、めぐりというものは、本当に分からして頂けば頂くほど、天地の親神様の、切なる願いの表れである。氏子ほんとに幸せにせずにはおかんという思いの表れである。ね、
 そこでそのめぐりのお取り払いのために、例えば一年間一生懸命修行させて頂いたら、自分の顔の中からそのあざが消えると、言う様なおかげを受けておられるということ。ね、そこにその問題だけは、心配がなくなると言う様な、おかげを頂かして貰うと言う事。ここんところをです、ほんとに私共がまだ表れていないからというて、安心したり、それにいわば腰掛ける様な事ではなくて、本気で信心は日々の改まりが第一と仰る、そこんところに改まりの焦点を置いてです。
 おかげを頂かせて頂く事によって、始めて分かるもの、私にはこういう汚いもの、私にはこういう人の持たない、いわば悪い癖があるということがです、あったおかげで、私が次のこういうおかげを受けた、そのことによって、徳を受けたと言う様な、めぐりが大きければ大きいだけ、おかげも大きいと仰る、おかげを受けることが出来るのですから、でもそれをなおざりにしておけばです、ね。
 もう本当に、そこにまつわるようにして、その難儀は起きて来るということ。ね、そのこともです、例えば人間がなかなか分からんからです、いわば足なら足というところに焦点を置いて、手なら手というところに焦点を置いて、耳なら耳ということに、焦点を置いてです、神様がこれでも分からんか、これでも分からんかというてです、ね、いうておいで説く所の、神様の心を心として、分からしてもろうて、改まりのことに焦点を置かなければいけないと思うですね。
   どうぞ。